「恭ちゃん、おはよ」

「あ、美由紀さん。おはようございます」

 朝、とある病院の一室で交わされる挨拶。

 そんな兄のあまりの変わりように、美由紀は花瓶の水を取り替えながら思わず苦笑した。

 

 厳しい師匠で、ちょっと意地悪な兄で………頼りになる我が家唯一の男性。

 いつかは、そんな関係を変えたいと常々思っていた美由紀だったが、さすがにこんな変わり方をするとは予想もしていなかった。

 まるで別人のように変わってしまった兄。

 だけど、それでも、大切な人には変わりなくて。

 

「美由紀さん、いつもいつもすみません。迷惑かけちゃって……学校の方もあるのに大変でしょう?」

「ううん、フィアッセ達と交代だし、全然大変じゃないよ。それに………家族だもん」

「あ……」

 美由紀の言葉に、恭也は小さく声を上げ口を手で押さえる。

 きっと他人行儀にしてしまった事を気にしているのだろう。

 

 ……まったく、そんな所だけは変わらないんだから。

 

 今度は表情に出さず、心の中でだけ美由紀は苦笑した。

「恭ちゃん……」

「は、はい。なんでしょう?」

「……気を使う必要なんて、ないよ。記憶を無くしても、恭ちゃんは恭ちゃんなんだから」

「美由紀さん………」

「あと、さん付けはやめて欲しいな。……照れちゃうよ」

 そこまで言って、二人はお互いの顔を見て微笑んだ。

 判ったのだ。

 記憶を失ったとしても、絆まで消えたわけではないということを。

 心まで、変わってなどいないと言う事を。

 

「えと……み、美由紀……」

「うん」

「ありがとう……ね」

「うんっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 もちろん、ただの錯覚だが(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあ……」

「キリキリ歩くのだ。さっさとしないと薫来ちゃうでしょ」

「くぅん」

「そ、そうですね……」

 後ろから小突かれるように文句を言われながら、那美(IN恭也)は渋々足の回転速度を速めた。

 だいたい、このひらひらとした・・・・・・・服装がいけないのだ。

 ただでさえ、萎縮しがちの気力をゴリゴリ磨り潰すように磨耗していってくれる。

 さすがの御神の剣士といえども、羞恥に耐える訓練などありはしない。ああ、あってたまるものか。

 ―――恭也は半分ヤケになって、道を歩いていた。

 

 

 

 美緒(猫又)と久遠(妖狐)の耳・尻尾同盟に秘密がばれて既に数時間。

 恭也はヒラヒラドレス・・・・・・・を着て、駅に向かう道をひたすら闊歩していた。

 

 

 

 何故このような事になったかと言うと、話は『偽那美、実は恭也だった』事件発覚直後まで遡る。

「―――は? 今、なんと言いました?」

「だ〜か〜らっ、本物の那美が見つかるまで那美のフリを続けるのっ!」

 ビシィッ!と指を顔の目の前に突き出され、思わず怯む恭也。

 もちろん、御神の剣士たる恭也が突然だろうがなんだろうが、そんな動作でビビる筈はないが―――美緒の言葉と勢いに圧されがちになっていた。

「……何故ですか? そんなことをしても、自体を悪化させるだけでは」

 恭也の指摘はごく当然の物だ。

 恭也の都合さえ無視してしまえば、今の恭也が『那美』を名乗るメリットは一つもないのだ。

 たとえ、身体が那美でも、だ。

 第一、恭也も美緒という『那美』の知り合いに発見されなければ、済し崩しのうちに『那美』を騙るなどということはしなかっただろう。

「普段だったらそうなんだろうけど……今日は薫が来るのだ!」

「…薫さんとは?」

 美緒の言葉に当然の疑問を返す恭也。

 昨晩からその名前は何度となく聞いているが……『那美』さんの関係者だろうか?

「あ、そっか。説明しなくちゃ判るわけないね。薫って言うのは『那美』の姉」

「……お姉さん、ですか。では、来る・・というのは?」

「九州の方に住んでて、今日は遊びに来る予定だったのだ」

 なるほど、ようやく納得行った。

 それなら昨日・今日の美緒さんの言動や、今朝の耕介さんの言っていた意味も理解できる。

 だが………。

「それで、何故『那美』さんのフリを続けなくてはいけないのですか?」

「あー、うんと……あんたに理解できると思わないけど、薫に今の状況を知られたらひじょーにヤバイ事になるのだ」

「……誰が?」

「あんたが」

 ………良く、理解できない。

 つまり、今の状況―――俺が『那美』さんの姿になっている事、もしくは『那美』さんを騙っていた事が姉の『薫』さんにばれると、俺が『ひじょーにヤバイ』事になる、と。

 アレか? 今朝の耕介さんによると、『薫』さんとやらも剣をやっていたようだし、バッサリやられると。

「………さすがにそれはまずいので、撃退する事もやぶさかではないのだが」

「………なんか、勘違いしてない?」

「む、そうなのか?」

 

 恭也が首を傾げて唸るのを見て、美緒は深く息を吐いた。

 先ほどから思っていたのだが………悪い奴ではないらしい。

 が、本家の『那美』並にボケている。

 鈍いというかずれているというか。

 

「あのね………あんた、今自分が置かれてる状況理解できてる?」

「……知らない間に『那美』さんの姿になった」

「ちがうって」

 美緒さんは首を横に振ると……きっぱり言い放った。

「今のあんた、たぶん幽霊だよ」

 ・

 ・

 ・

「はい?」

 You rei?

「ゆ・う・れ・い。魂とか、そんな感じの」

「………」

「理解できないって顔だね」

 当たり前だと、恭也は内心毒づいた。

 そんなもので理解できるなら、今頃自分は霊媒師にでもなっている。

「うんとね、薫。退魔師なんだ……那美もだけど」

「………退魔師?」

「そ。だから、あたしも結構幽霊とか見る機会あって……だから、予想なんだけど。多分『那美』に憑いてる状態かなって」

「………憑いてる?」

 

 理解できない。

 いや、理解したくないのか?

 でも、あまりにも、美緒さんの視線が真剣で。

 それが突拍子もない、トンデモ話だとしても一笑できる雰囲気ではなく。

 何より、美緒さんの耳が、尻尾が、さっきから足元でくるくる回ってる狐の女の子が。

 ―――そんな非常識もありえる、と俺の頭が無理矢理に理解した。否、させられた。

 

 

 

 気が付いたときには、恭也はさざなみ寮に舞い戻って美緒に服を着替えさせられていた。

 美緒曰く、『那美はそんな服着ないのだ』と言う事で、このヒラヒラドレス・・・・・・・着せられて。

 ……ドレスではなく、ワンピースなのだが恭也にそんなことは関係ある筈もなく。

 久遠の『きょうや、かわいい・・・』という台詞に、ひたすら落ち込むことしか出来なかった。

 着替える際抵抗した為、女の子(美緒)に脱がされた事実は墓の中まで持って行こう。

 恭也は固く決心した。

 

 

 

 

 

「と言う訳で、薫に絶対悟られちゃ駄目」

 『薫』を迎えに行く道すがら、美緒は恭也に口酸っぱく忠告する。

 しかし、恭也は聞いているが半ば魂が抜け出ている状態、当然の如く脳にはほとんど届いていない。

「もしもばれたら、あんたなんて一瞬で消されるのだ」

「は、はあ……それは判りましたけど……」

 生返事を返しながらも、恭也は先ほどから疑問に思う事があった。

 それは、

「……何故、俺を助けてくれるんですか?」

「は? だから、ばれたらあんたが薫に―――」

「それは、あくまで俺の事情です。あなたの立場から言えば、俺にはさっさと消えてもらった方がいいんじゃないんですか?」

 そう、なのだ。

 確かに美緒の言うとおり、退魔師とやらである『薫』に会ってしまえば恭也は消されるかも知れない。

 だが、恭也が消えれば、同時に憑かれた那美は助かる―――まだ予想の段階だが―――のではないか?

 那美の魂とやらが、他の場所にあるとしても……恭也を助ける理由にはならない。

「そそそ、そんなことないのだっ! あー、えーと……ほら、やっぱあんたみたいな奴でも、死なれると寝覚め悪いのだ!」

「……さっきの説明だと、俺は死」

「幽霊でも!」

「そ、そうですか。ありがとうございます」

 

 一通りのやり取りの後、ほう、と美緒は胸を撫で下ろした。

 確かに消えられるのは後味悪いが―――美緒はそれ以上に薫自身が怖かった。

 那美だと気付かず、男(身体は那美だが)をわざわざ学校から引っ張ってきて、さざなみ寮の中に連れ込んだと知られたら―――

 いくら不可抗力とはいえ、少なくとも折檻と小遣い減少は免れまい。

 

「ぶるぶるぶる、ひじょーに恐ろしいのだ……」

「何か言いました?」

「なんでもないのだっ!」

 

 

 

「ところであんた」

「はい?」

 駅まで後十数メートルといった所で、美緒がいきなり話しかけてきた事に恭也はいささか狼狽した。

 つまり―――なんだ、まだ何かあるのかっ!?―――と。

 だが、予想に反して、美緒が話しかけてきた内容は今までとはジャンルの違う・・・・・・・ものだった

「……何か、武道とかやってる?」

「は、はぁ……一応、嗜み程度に」

 

 もちろん、この答えに『はい、そうですか』などと納得できる美緒ではない。

 『神咲一灯流当代』である神咲薫、『神咲一灯流始まって以来の天才』槙原耕介、『さざなみ寮のセクハラ大魔王』仁村真雪。

 運動能力だけと限定条件を付けるなら、さざなみ寮が誇る非常識戦闘技能保持者であるこの三名にすら、美緒は勝っているのだ。

 それをいともあっさり取り押さえたこの男(重ね重ね言うが見た目は那美)は、言うに事欠いてこんな事を抜かしている。

 納得できる? いや、納得できる筈がない。

 

「ふざけるんじゃないのだ。嗜み程度の奴があんな動き―――」

「くぅんっ!」

 そんな美緒の台詞を遮ったのは、今までずっと恭也の頭の上に鎮座していた久遠。

 何故か久遠は鋭い声を上げ、ぴょんと頭の上から飛び降りると商店街を歩く人々の間を物凄いスピードですり抜け走り去っていく。

 半ば呆然としていた二人は、はっと正気に戻ると慌てて地面を疾走する小さな影を追いかけていった。

 

 

 

 

 

 一方、駅前―――

「くっ!」

 大きく肩を揺らし、地面に膝を付く女性―――神咲薫は、目の前に存在する『ゆらぎ』を睨み付けた。

 ぎりりと奥歯を噛み締め、手に持っていた竹刀袋を杖の代わりにして立ち上がる。

 

 なぜ、こんな真昼間に霊障が―――っ!

 

 幽霊、魂、壊れた存在モノの成れの果て―――。

 それを表すモノはいくらでもあるが、彼女達・・・は悪意を持って人に襲い掛かるそれを霊障と呼んでいた。

 彼女が驚いている理由は主に二つ。

 

 まず、霊障それに対するエキスパートである自分がこんな完全な形になるまで気付かなかった事。

 ここまで『力』のある霊障ならば、例えその『力』を振るっていなくとも近くに存在していれば絶対に気づいた筈だ。

 それなのに、これ・・は突然現れた。

 その場に潜伏していたのでもなく、違う場所から移動してきたのでもなく、突然出現した・・・・・・

 

 そして、何故こんな時間、こんな人の多い場所に現れたか。

 霊障とは、人や生物、生命の循環―――正常な自然から外れた存在である。

 その為か判らないが、同じく生命の循環から外れた存在である『夜の一族』と同じく、その力は夜が近づけば近づくほど強くなる。

 それに、人の多い場所はそれだけでも、霊障が力を振るうには不向きなのだ。

 霊障が力を振るう、それは『想い』を振るう事と同義である。

 想い―――それは信念であったり、情慕であったり、本能であったり、未練であったりさまざまだが、

 人の集まる場所では多数の他の想いに、霊障の『想い』が掻き消されてしまうのだ。

 だからこそ、霊障は人気のない真夜中に出現することが多いのだ。

 

 なのにこいつは、こんな悪条件の中で人に害するほどの力を振るい、しかも自分に気付かれず出現したというのだ。

 

 

「早くっ、早くここから避難してくださいっ!」

 

 

 周りの一般人は悲鳴を上げて混乱している。

 霊障によって数人が昏倒―――気絶しただけでおそらくは死んでいないだろう―――した時点で異常は伝わった。

 だが、倒れた人を見て悲鳴を上げる者。

 その悲鳴を聞き、なんだなんだと集まってくる者。

 『通り魔だ!』と無責任な声を上げ、周りを混乱させる者。

 友人が倒れ、泣き叫びその場に蹲る者。

 逃げ出した者もいる―――しかし、全員が逃げ出している訳ではない。

 むしろ、この場に留まっている者の方が多いのだ。

 途中から霊力を持っている薫に標的を絞った霊障だったが、さらなる被害者はまだ出ていない。

 だが、それが災いし、周りの人間はここが戦場並の危険にさらされている事に気付いていないのだ。

 

「破っ!!」

 いつも使っている技とは違う、ただ単に声に霊力を乗せてぶつけるだけの愚策。

 霊障はそれに一瞬は怯むのだが―――如何せん、そんなモノで倒せる霊ではない。

 ここで『神咲一灯流正統伝承』霊剣十六夜が使えるなら、やりようはいくらでもあるだろう。

 だが、こんな所で真剣を抜き、振り回す訳にもいかないのだ。

 

 二進も三進も行かないそんな時だった。

 

ピシャァァンッ

「くぅん!」

「薫!」

 

 雷と、狐と、少女と、

 

「これは、一体―――」

 

 一振りの小刀を携えた、剣士が現れたのは。

 

 

 

続かせたい



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