「私は誰……? 私は……誰……?」

 とある病院の一室。病室のベットに座っている黒髪の青年は壊れたように同じ言葉を繰り返していた。

 その様子を辛そうに見ている女性、高町桃子は担当の医者から聞かされた内容を思い出していた。

 

「き、記憶障害ですか?」

「その通りです。おそらく彼は何らかの精神的衝撃………ストレスによって記憶に障害が出ています」

「そんな……恭也が……」

「治す為の治療法は、時間。それしかありません」

 

 桃子は恭也にそこまで負担を掛けていたのかと、心底後悔していた。

 どんなに自立し、高潔な精神を持っていたとしても―――恭也はまだ20にもなっていない子供だったのだ。

 いなくなってしまった士郎の代わりに『家族を守る』という恭也の意思を尊重していたつもりだったが………やはり、小さな頃から押し付けていた『父』と『兄』役は、恭也の心を壊してしまうほど辛いものだったのだろう。

 桃子は決意した。恭也にこれ以上負担はかけまい。そして、一日でも早く治るよう気をつけて接していかなくてはならない―――

 

「あなたの名前は、高町恭也よ」

「高町……恭也? 私は高町恭也?」

「ええ、そうよ。あなたは恭也」

 

 精神的ショックを与え、人格を一旦壊してからの刷り込み。

 それが怪しげな宗教が良くやる洗脳の手口だと気付く人物は、不幸にも存在しなかった。

 

 

 

 

 

「はあ……結局、泊まってしまった……」

 布団から身を起こし、深々と溜息を付く少女。

 本来ならほのぼのとした空気を醸し出している筈の少女―――だが、今現在は如何せん、中身が違った。

本物・・は、帰ってこなかったな)

 上半身を起こして髪を掻きあげながら、昨日から置かれている自分の立場を思い出していた。

 

 神咲那美。私立風芽丘学園2年生。現在親元を離れ、ここさざなみ女子寮で暮らしている。

 ―――これが昨夜のゴタゴタの中で、なんとか恭也が理解した事だった。

(どうやら俺こと高町恭也は、この神咲那美さんになってしまったらしい……あの時の階段での出来事が原因で)

 理解した。理解はしたが……納得は到底できそうもない。

 那美―――いや、恭也は自分の細くなった腕を見下ろして、再び嘆息した。

(まったく……俺が一体何をしたと言うんだ?)

 自分は正しい事をした筈だ。

 あの時階段を落ちそうになった神咲那美さんを助けなければ、彼女は最低でも大怪我―――下手をしたら死んでいただろう。

 だが、それを恩にきろとか、感謝しろなどと言うつもりはない………ただ、

(人助けをして、こんな状況に追い込まなくてもいいだろうに……)

 どこのどの神が悪戯をしたのだろう? とりあえず、神頼みの類はこれから一切しまい。そう決意して、布団を横に退け上半身を起こした。

ばさっ

「あ……」

 布団から立ち上がった所で、恭也はその可愛らしい顔に似つかわしい真っ赤な顔で固まった。

(そういえば昨晩、真雪さんに朝まで付き合わされて―――疲れきって服だけ脱いで寝たんだったな)

 現在の自分の身体とはいえ、知らない女性の下着姿を見た事に罪悪感を覚えた恭也は、思わず吸い付いてしまう視線を無理矢理剥がして立ち上がった。

 

 

 

 恭也が頭の中で那美に―――本物の神咲那美に―――謝りながら、服を無断で借りて部屋を出ると背後から声を掛けられた。

「おはよう、那美ちゃん。今日は早いね」

「あ……こ、耕介さん。おはようございます」

 槙原耕介。このさざなみ女子寮の管理人。

 昨日、なんとか探り出した情報を頭の中で反復しながら、恭也は慌てて頭を下げた。

 いくらこんな状況だからといって、部屋のすぐ外に人がいた事を気付かなかった自分に少々情けなさも感じたが、今はそんな事を悔やんでいる場合ではないと思い直した。

「耕介さんこそ、早いですね」

「ははっ、なんていっても管理人だからね……やっぱり住人よりは早く起きておかないと」

 恭也が当たり障りのない返事をすると、耕介は苦笑して肩を竦めた。

 男ながら女子寮の管理人を務める人物だけあって、気が利く温和な人間のようだ。

 まあ、2m近くある上背は少々威圧感を感じるが、それは自分が元の背より小さくなってる事も関係しているだろう。

 と―――耕介が、不思議そうな表情で恭也を見つめてきた。

「あれ? 那美ちゃん……」

「は、はい。なんでしょうか?」

 しまった―――何か失敗したか!?

 瞬時に自分の言動を思い返すが、どこを失敗したのかすら判らない。

 正体がばれるのはまずい。さすがに警察のお世話にはなりたくない。

 内心冷や汗を浮かべながら警戒する恭也、しかし耕介はそんな気も知らずあっさり言ってきた。

「今日は珍しい格好してるね」

「は? ………え、えーと、そうですか?」

 指摘されて恭也は自分の姿を見下ろした。

 無地のトレーナー(黒)にジーンズ。特におかしな点はない普通の格好だ。

「うん。いつもはズボンじゃなくてスカートだろ? そのトレーナーも買ったはいいけど可愛くないって言って着てなかった奴じゃないか」

「あ、う、え……そ、その、イメージチェンジですよ。今日はなんとなくこんな格好してみたい気分だったから!」

「ああ……そうか。薫の真似したのか。うんうん、そういや薫いつもそんな格好してたっけ」

「は、はい! そうなんですよ!」

 相手の話に合わせて必死に頷く恭也。

 自分でも不自然な態度だとは思うが………まあ、仕方ない。

 元来嘘をついたり、誤魔化したりするのは苦手なのだから、それを考えれば上出来と言えるだろう。

 そういえば昨日も名前が出たが、薫っていうのは誰だろう?

 ………関係ない、か。昨日はいろいろあって結局泊まってしまったが、すぐに去るつもりだしな。

 恭也が考え事をして黙っていると、耕介はぽんと那美(身体)の頭に手を乗せると苦笑いして言って来た。

「昨日は……真雪さんに付き合って大変だったろ? なんかさっきからぼーっとしてるぞ」

「え、ええ、まあ………」

 

 ぼーっとして見えるのはその所為ではないいが、大変だったのは間違いない。

 昨日、真雪さん(昨夜の眼鏡の女性)をKOした後、美緒さん(ショートカットの女子生徒)に全ての事情を聞き、寮に着いてから恭也は土下座して謝る事になったのだ。

 というのも、実は真雪さんは漫画家で〆切が迫っていた(…というか昨日が〆切だった)ので、そうとう精神的に追い詰められてああいう凶行に走ったらしい。

 真雪さんの行動が異常だったのは確かだが、一般人に手を出してしまった事を恭也は後悔し謝って―――後悔したことを後悔したのは、部屋に連れ込まれて監禁され、アシスタントにされた後だった。

 その夜味わったのは地獄と天国に一番近い場所、まさに阿鼻叫喚の図だった。

 ―――御神の剣士にここまで思わせる、漫画家の〆切恐るべし。

 

「それで、今日は薫迎えに行くんだろ?」

「え………あ、ああ、もう少ししたら行きます」

 耕介の言葉、また出てきた薫と言う名前―――この人物の事は上手く聞き出せなかった―――に曖昧に返事する恭也。

 その『薫』という人物が来る前には消えるつもりだ……が、そんな事を言える筈がない。

 何にしても、一刻も早くここから逃げた方が良さそうだと判断した恭也は、口から出任せを言って立ち去る事にした。

「ちょっとそこまでランニングに行ってきます」

「ははは、今から薫に怒られないようにランニングか? 普段から剣の訓練しとかないからだぞ」

 ―――正直、意外に思った。

 外見や肉付きから見るに、剣の訓練どころか身体を動かす事でさえろくにやっていないと考えていたからだ。

 そんな考えが顔に出てしまったのか、耕介は不思議そうな表情をしている。

 ―――つくづく、自分は嘘や隠し事に向いていない。

「……そうですね。ついでに剣も少し振ってきます」

「俺も付き合おうか? 朝食の仕込みはもう終わってるし」

「いえ、どうせあまり長くやるつもりもありませんから」

 耕介さんも剣をやるのか―――と無意識に頭の中でメモを取っていた恭也は、そんな自分に苦笑した。

 昨日は話を合わせる為に散々人を観察し、分析していたが、もう自分はいなくなるのに必要なかったな、と。

「それじゃ、行っといで。朝食は作って置くから」

「はい。ありがとうございます。じゃあ―――」

 行ってきますとも、さよならとも言わず、恭也は家を出た。

 

 

 

 さて、これからどうするか。

 山道を下りながら、恭也は溜息を付いた。

 あの女子寮からやっと出られたのはいいが、これからどうしたらいいのか皆目見当も付かない。

 昨夜は本来ならとりあえず、この近くにある筈の神社にでも身を潜めるつもりだったが、それは一時しのぎの話で根本的な『どうやって元に戻るか』という問題の解決になっていない。

 それに、なんらかの手段で家にも早く連絡を付けなくてはならない。

 なにせ、常に連絡は欠かさなかった自分が、急に行方不明になったのだ―――下手をしなくても心配を多大にかけているだろう。

 そして、色々と悩んだ結果、恭也が出した答えは、

「とりあえず、神社に行ってから考えるか」

 結局、一時しのぎだった。

「那美〜!」

 遠くから突如聞こえてきたその呼び声に、ビクンッと身体を震わせる。

 やばい、また『那美』さんの知り合いか―――!?

 恭也は慌てて声の方を振り向くと……そっと安堵とも疲れとも取れる溜息を付いた。

 そう、昨日もこんなシチュエーションで会った人物だったからである。

「……美緒さん、どうしたんですか?」

「どうしたんですか、じゃないよ。まったく那美ってばそそっかしいんだから!」

 昨日から何かと縁のある女生徒―――陣内美緒さんは、そう言いながら恭也の手に無理矢理何かを押し付けた。

 長い棒状の物、それは恭也にとって馴染みの深い物だった。

「こ、これは……」

「剣の練習するのに、雪月忘れてったら意味ないよ」

 雪月、それがこの小刀の銘か。

 恭也は手元の小刀―――使い慣れた小太刀よりさらに短い―――を見下ろしながら、内心深々と溜息を付いた。

 これは『那美』さんの持ち物だろう。

 持って行ってはまずい、が、持って行かなくては正体をばらすような物だろう。

 後でこっそり返しに行こうと思いながら、頭を下げた。

「あ、ありがとうございます」

「お礼はいつも通り翠屋のシュークリームでいいのだ」

「………それはまた今度」

 うちの常連だったのか……などと思いながら、恭也は美緒を再び観察した。

 そういえば、たびたび来ていた様な気もする。

 ぼんやりとそんな事を考えていた恭也は、次の美緒の言葉に顔を引きつらせた。

「それで、あたしも付き合って良いよね」

「………は?」

「耕介がさー、最近バイクばっかに乗って運動不足だからお前も行って来いーって。で、ついでに雪月届けて来いって言われて来たの」

「………」

 耕介のあまりの気配りに、恭也は泣きたくなった。

「良いでしょ? っていうか、一緒にマラソンしないと朝食が無くなりそうな勢いだったから無理にでも付き合うのだ」

「………災難でしたね」

 俺がな、と恭也は慟哭した。

 美緒はまったくなのだーと気付いた様子もなく、恭也の横に並んで歩き始める。

「どこまで走るの?」

「……海鳴一周でもしましょうか」

「えー、せっかくの日曜にそんなハードな距離走りたくない。それだったら後であたしのバイクでツーリングしようよ」

「何の為に走ると思ってるんですか」

「あたしの朝食の為なのだ」

 そこまで断言できると立派である。

 まあ、途中ではぐれた振りして消えればいいか、と安易に考える恭也だったが―――

「やっぱ神社かな、行き先」

「ど、どうして神社に?」

「………いつも行ってるじゃん。那美のアルバイト先だし」

 恭也は地面に突っ伏した。

 いつも『那美』が行っている。

 つまり、潜伏先には使えない―――そういう事である。

「那美〜……何もない所で転ぶ癖、そろそろ直した方がいいよ?」

「……善処します」

 ひたすら泣きたくなった。

 

 

続けない



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